忘れられないわ~って言っても記憶は薄れていくものだよね
1か月ほどサボってしまいました。
書いて残しておきたいこと、このひと月にたくさんありました。
今日は、きっとこの先ずっと忘れない、忘れられない日について記しておきます。
忘れられないほどのワケはだいぶ過去に遡るので、すんごく長くなる。。でも、忘れないように全部残しておきたいので。
将来ひーひー言ってる私へ
このページを見返したなら、長いけど最後まで読んで、もっと鮮明にあの日々を思い出してください。
応援してくれる人たち、追いつきたい憧れの人、貰った言葉、全部忘れちゃいけない。
私を支えてくれた人たちに恩返しできるように。私の原動力の大きな一部である、目標の人との話です。
小さな頃から、流行りのアニメを見るよりも、父の膝の上で巨人戦の中継を見る方が好きな、ちょっと変わった子だった。
いつからか学校や友達との遊びから帰れば、新聞のスポーツ欄を読むことが日課だった。
ある日、父が職場で捨てずに、持って帰ってきたものを見て感銘を受けた。
その読み終えてかさばったスポーツ新聞を手に取り、部屋の床に広げて夢中で読んだ。
試合の詳細以上に選手のちょっとしたエピソードや、詳しいコメントが載っている。
テレビの向こう、遠くの遠くにいる選手をなんだか近くに感じられて嬉しかった。
「父さん、今度からこれ毎日持って帰ってきてよ」
それからしばらく、高校2年生の冬。
少し前に買ってもらったスマートフォンの扱いに慣れてきた頃、SNSで見つけたあるアカウントの過去ログを夢中で読み漁った。
テスト期間だっていうのに止まらない。家族に夜更かしがバレないよう消灯した部屋の布団の中、スマホ画面と私の目はずっと明るかった。
そのアカウントというのは、あるスポーツ新聞の記者さんが紙面に掲載できなかったこぼれ話を投稿していたものだった。
小学生のあの日、夢中になったものが並んでた。
選手の人柄や抱えている思いがあちらこちらの文章ににじみ出てた。
個々の選手それぞれを近くに感じられて、もっと応援したくなった。
そんな文章を書く記者さんに憧れた。
思わず翌日に、女性の野球担当の記者はいるのかコメントした。
なんと返信が来た。しかも2通にわたって。
一つ目は、どこの新聞社にも女性記者がいること。
二つ目は、女性記者になるために持っておくといいこと。
これがはじまり。
投稿している記者さんのような視点の話は、きっと野球に興味がない人にも、いろんな人の活力になれるはず。
私も同じような記者になって、同じような仕事がしたいと心底思った。
なりたい職業以上に、こんなに明確にやりたい事を見つけたのは初めてだった。
2013年8月5日
高校3年の夏、新しく決めていた志望校のオープンキャンパスに参加するために、ひとり広島から東京へ向かった。
っていうのは半分ホントで、もう半分はあのアカウントの主である記者さんに会いたかった。
はじめての練習球場に入って思った。
連絡手段がないとか云々の前に、そもそもお顔が分からない。
でも、せっかくここまで来たんだし、、、てか私今日「チーズバーガーください」しか言ってない。
後ろを通り、斜め後ろに座った人に、間違い覚悟であの記者さんの名前を出して声をかけた。
首にぶら下げた取材許可証で記者の人とは分かっていた。
やわらかな笑顔と共に、思ってもいなかった答えが返ってきた。
「はい、そうですよ。僕が(名前)ですよ。」
しかも、私がコメントのやり取りをした人物だとすぐに見抜かれた。
記者の魅力と大変さ、どちらも教えてくれた。
この後もらったメッセージは、就職活動中ずっと待ち受け画面にしていた。
この後、志望していた関東の大学に進学した。
高校生の頃の部活や勉強に一直線に頑張る幸せだけじゃなく、いろんな幸せの形を知った。
その度に目標への気持ちは揺らいだ。
そんな時は毎回、記者さんを追っかけて、話をした。
はじめて話した時からそうなんだけど、いつも良いことも悪いことも話してくれて、決断は必ず自分ひとりでするためのいろんな話をしてくれた。
結局大学3年途中まで悩んだけど、やっぱり記者さんの文章を読んで本気で記者になることを決意した。
どうしてか文章を読みながら涙が出てきて、部屋でひとり「やっぱりこれがしたい」ってつぶやいてた。
鈴木尚広さんの引退記事だった。
別に今までが本気じゃなかったわけじゃない。
けれど、あの頃の本気は何にもまだ知らない憧れが募ってできたものだった。
前に記者さんが話してたことが、この頃になってちゃんと分かるなんてこともたくさんだった。
気持ちが固まり、宮崎キャンプへ向かった。
より近くで記者の人の選手との関わり方と一日を追った。
到着初日、予約した民宿で自転車を借りて、球場まで急いだ。
ここでも到着と同時に、偶然目の前に記者さんがいてびっくりしたなあ。
新しく出会った記者やカメラマンの方々にもいろんなことを教えてもらった。
やっぱ私この仕事したいわ、って現場に行って再確認、決意。
そうして迎えた就職活動。
第一志望に決まった。念願の職に就けることが決まった。
最終面接の後、友達と好きなバンドのライブに行き、帰り道の電話で通知をもらった。
すぐに友人と横浜通りにある大衆居酒屋に入り、泣きじゃくりながら両親に電話した。
記者さんとは違う会社。もっと多くの人に、私が目指すような記事を読んでもらいたかった。
くだらなくて笑ってくれてもいい、ちょっとほっこりしてくれてもいい、誰かにとっての活力にもっとなれると思うから。
2017年4月19日
例の練習球場で話をするのは、初めて会ったあの日以来だった。
『〇〇社の記者になることになりました』
突然の思ってもみなかった報告に、今までで最高の驚きとおめでとうの言葉をくださった。
私がびっくりするくらい自分のことのように喜んでくれて、嬉しかった。
「いつか必ず一緒に仕事しような」
あの日から四年弱、ずっとずっと欲しかった言葉をもらえて、膝は震え、目頭が熱くなるのを必死でこらえた。
やっとスタートラインに立てた。やっと背中を追える場所に立てた。
この瞬間は絶対に忘れない。忘れられない。
いつだって色濃く鮮明に覚えていたい。
きっと今まで生きてきた中で一番嬉しかった。
ただの高校生、大学生だった私を突き放したって全く問題なんてなかった。
むしろ、仕事の邪魔だって追い払われてたって仕方なかった。
けど、いつだって大事なことを教えてくれて、自分から離れた時期があっても、会いに追っかければ話をしてくれた。
何より、私が本当に進みたい将来をちゃんと考えられるように、ただ応援するだけじゃなく、他の人が教えてくれないことをいつも指摘してくれた。
私が初めて会えた記者さんがあなたでよかった。
恩返しできるよう、優しくてタフな記者になります。一緒に仕事ができるような立派な記者になります。
他にもいろんな場面でいろんな人に会って、支えてもらって応援してもらって今がある、これは本当に。
一人じゃなんもできてないし、周りの人たちに恵まれたからこそ。
全てを記ししておきたいのだけど、そろそろ眠気も限界なので、また再会して報告ができたらここに残そうと思います。
最後に、
どんだけぶつかったって一番応援してくれる父と、嬉しいことがあると自分よりも喜んでくれる母の元に生まれて、本当に幸せ者だと思う。
無鉄砲で、言ったら聞かない手もお金もかかる大変な娘だと、自分でマジで思う、、。
ありがとう。
今年はAmazon以外で、誕生日プレゼント送る準備しとくよ。